昨日は夕方にリ*イ*のジムに行ってきた。
歩いたり走ったりしながらやっと5kmを制覇する・・・・・
なんと37分もかかってしまった・・・・・
40代を過ぎたら過度な運動は逆効果と言われているが
夢枕獏の小説のなかのセリフじゃないが
「1日サボったら10日元に戻る。トレーニングとはそういうものだ」
という考えのほうを俺は支持する・・・・・・
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今日の朝市は本当にヒマだった・・・・・・・・
P坂井店やP清水店行きの荷物や伝票を書いても
だ〜れもお客さんは来ない・・・・・思いつく限りの仕事を
しても、だ〜れも来ない・・・・・・・・
本当に市場は死に近づいている・・・・・・・・
「日本はゆっくり死んでいる」と言ったのは作家の村上龍だが
ヤツはやれキューバだ、やれレゲエだ、やれテニスだと浮かれた生活をしているはずなのに
どうしてこういう日本国民の肌感覚にピッタリくる表現ができるのだろう?
そこらへんがやつのセンスの良さなんだろうし
そういったセンスがなければ若くして芥川賞なんぞ取れないだろうし
そっから先、第一線で走り続けるなんてこともできなかったのだろう・・・・・
くやしいがその才能は認めざるを得ない・・・・・
「日本はゆっくり死んでいる」・・・・・・・・・・・・・・・・・・
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俺の贔屓の作家、黒川博行がポン友・白川道について書いているエッセイを見つけた
一昨日亡くなった藤原伊織とこの白川通、そして黒川博行はマージャン仲間だ・・・・・
彼らのマージャンは楽しそうで俺たちのマージャンの雰囲気と似ている・・・
まッ レートは比べようもないが・・・・・
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「月刊競輪」に連載されていたこのエッセイを、わたしは毎回読んでいた。そうして思うことはいつも同じ。よくぞこんなむずかしいエッセイを書きつづけられるものだと。
 わたしは競輪をしないが、麻雀、花札、サイコロといった対人博打とカジノをする。みなそれぞれにルールがあり、張りとりの法則らしきものが存在するが、その機微と蘊蓄(うんちく)をトオちゃんのように理路整然と、しかも分かりやすく平明に書くことは、わたしにはできない。
 トオちゃんには確固たる“競輪論”があり、それに裏打ちされたギャンブル思想がある。その意味ではまさに最高の人物が競輪を語ったエッセイ集だと断言できるし、トオちゃんの負けっぷりのすごさ、経済観念のなさ、壊れかたのひどさにユーモアさえ感じとれるのは、わたしだけではないと思う。
 であるからして、わたしが競輪を云々するのはおこがましい。論も意見も吐けない。そこでトオちゃんの麻雀を書こうと思いたった。
 トオちゃんとはじめて会ったのは「新潮四賞」の授賞パーティーだった。大阪在住のわたしがなぜ新幹線に乗って東京へ行ったのか、いまはまったく憶えていない。受賞者の誰かが知り合いだったような気はするが、そのことは頭になく、トオちゃんと会ったことだけが印象に残っている。
 トオちゃんはそのとき、白のオープンシャツに生成(きな)りの麻のズボン、白の革靴といういでたちだった。はて、文学賞のパーティーにどこの総会屋が来たんかいな――といぶかるわたしに、「黒川さんですよね。白川です」と、にこやかにいい、「一度、麻雀をごいっしょしましょう」と誘ってくれた。
「はいはい、お呼びがあれば、いつでもどこでも誰とでも」
 わたしも愛想よく返事をしたが、よくある社交辞令で、ほんとうに卓を囲もうとは思っていない。業界の噂で「白川道はめちゃくちゃ麻雀が強い」と聞いていたし、わたしは“牌(パイ)を並べられる程度の腕前で、なおかつ払いのよいひとと打つ”ことをモットーとしているからである。
 しかしながら、その数カ月後に某編集者から電話がかかってきた。白川道鷺沢萠黒川博行、編集者の四人で麻雀をしようという。雀荘の予約までしたというから逃げるわけにはいかない。わたしも多少は“麻雀が強いらしい”といわれていたようだから。
 で、トオちゃんとの初対局は神楽坂で打った。レートはわりに常識的で、トオちゃんは物足りなかったのか、途中からニギリを申し込まれた。「はいはい、けっこうでございますよ」。ニギリを受けて、結果は四勝二敗だったか。わたしはたまたま勝ちをおさめたが、このオヤジはただものではない、と思った。こちらも四十年のキャリアだから、半荘(はんチャン)一回も打ち筋を見ていれば、相手の伎倆は判断できる。「トオちゃんとはもう打たんとこ」。わたしはそう心に決めた。たった一戦でも勝ちは勝ちだから、「おれはあの白川道に勝ち越してるんやで」と世間にいいふらすことができる。そもそも強い相手と博打をするのはわたしの信条に反するのだ。
 それからまた数カ月後に、トオちゃんから誘いの電話があった。今度は「週刊P」の誌上対局で、メンバーは浅田次郎藤原伊織白川道黒川博行の四人ときた。
「はいはい、よろこんで参加させていただきます」。わたしはあとずさりしながらファイティングポーズをとり、当日になってレートを聞いたときは座りションベンを洩らしそうになった。あの神楽坂のレートの××倍である。わたしは白川道が壊れていることを改めて実感した。
 誌上対局は半荘十回が闘われ、トオちゃんはなんと役満を三回もアガった。そのうちの一回はこのわたしが国士無双を放銃している。当然のごとくトオちゃんが大勝し、わたしはかろうじてプラスを保ったが、この勝負はわたしの負け。
 そんなこんなでトオちゃんとはすっかり雀友になり、上京するたびに卓を囲んでいる。このエッセイで藤原伊織とわたしが「立川ダービー」に参加した日も、あとは赤坂の雀荘に流れて、負け犬同士の凄絶な闘いを演じている。
 トオちゃんは洒脱なひとだから、わたしのような初心者に滔々(とうとう)と競輪を語るような野暮はしないが、その熱い胸のうちはこのエッセイを読んで充分に分かった。半生をかけて愛した競輪から引退するわけもよく分かった。最終章の「さよなら競輪」はとりわけ心に滲みる。
 白川道は競輪をとおして人生を語っている。